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日々の出来事

2013/11/06

カラスが鳴くから

父の状態は日々悪くなっていった。入院した時は黄疸で黄色だったが自宅に帰る頃から土色の肌になっていた。穏やかな時を過ごすために麻薬の助けも借りた。東京にいた娘も大掃除から手伝い、介護の手助けもしてくれた。
父の90歳の誕生日を祝うためにまた東京へ。小さなケーキを一口、ビールも一口、父の口に入れて90歳の誕生日を祝った。死の宣告から3週間が過ぎていた。つらい介護の日々が早く終わってほしい、でも、もっと生きていて欲しい、複雑な思いが巡った。

誕生日の翌々日、事態は急変した。血圧が下がり、危ない状態になった。延命措置はしないと決めたので、静かに見守るしかなかった。意識はもうろうとしているが、時々呼びかけに応えていた。なんとか血圧が上がってくれないか、みんなで手や足をさすってみた。

母は昼食のあといつものように自分の部屋で午睡を取っていた。私たちも少し横になっていたが、その日は朝から団地の植木の剪定で電気のこぎりの音がうるさく響いていた。起きて来た母が「カラスが集まって鳴き声がうるさくて眠れなかった」という。「えっ?カラスとか鳴いてないでしょ?電気のこぎりの音でしょ。」「いいや、カラスだよ、人が死ぬとき集まって鳴くんだよ」しかし、母以外の誰もカラスの声は聞いてない。迷信を信じない母なのに本当に聞こえたのだろうか?

夕方心配して来てくれた看護師が「あら、血圧が少し上がってる、みんなの気持ちが通じたのね」というので、少し持ち直したと思った。
明朝、体調をくずし介護の手伝いは出来ないと言ってた母が早くに起きて父のベッドの傍らで「しっかりしなさい、しっかりしなさい」と声をかけはじめた。苦しい呼吸を一晩中していた父は私たちの見守る中で息を引取った。

十分な介護は出来なかったが、父のおかげで何十年ぶりに家族同じ時間を過ごすことができた。年老いた親の死を受け入れるための、長過ぎず、短すぎず、程よい時間であった。
残された母との時間も大切にしよう。

2013/11/01

介護者の気持ちがわかった

最初の入院からずっと付き添い、転医しても毎日病院に通い詰めてくれた姉を少し休ませようと、初日の介護を引き受けたものの、看護も介護も知識ゼロの私には地獄の二日間だった。肝機能不全で黄疸はますますひどくなり、アンモニアなど老廃物が血液で脳にも運ばれるので、認知症がますます酷くなるような状態で、幻覚を見るようになった。帰って来た当日は人の出入りが多くて興奮したのか、夜中に大声で寝言を言い続けて(起きてる時に出す声はすごく小さくて聞き取れないのに、どうしてそんなに大きな声がでるんだ!?)私をいらつかせた。水分はそんなに取ってないのに、大量の尿でオムツと敷物と寝間着を汚され、その交換に手間取って、さらにいらつかせた。2時間おきに体位交換をしなければならないので、最新鋭介護ベッドのエアマットの出番、と夜中に操作してみた。ところが、これが思うように動いてくれず、かえって父には苦しい思いをさせてしまった。

延命治療をしないで家で看るということは、点滴もなければ投薬もない。点滴をすれば少しは長らえるが、水分がお腹に溜まりかえって苦しい思いをさせる。多臓器不全の状態なので常に炎症があり熱がでるが、解熱剤も使わない。解熱剤を処方されていたが、使えばそのまま意識がなくなる可能性もあるので、頭を冷やすだけのシンプルな方法をとる。

どんなに医療が発達しても、終末期の患者には何も役に立たない、手厚い看護だけが必要になる。 筋肉の緩んだ肛門からは絶えず汚物が流れ出るので常に清潔にしなければ肛門周辺がダダレ痛みの原因になる。寝返りが打てなければ背中や腰が痛くなり、褥瘡になる。 患者のそばに複数で待機しなければすぐには対応出来ない。

自宅で介護をするというのは、日常生活を送りながら、病人の世話もしなければならないということで、病院に預けてる時とは全く違う状況になる。自分たちの食事の準備と病人の食事の準備をそれぞれしなければならない。スプーンに3口ほどしか食べられなくなっていたが、なるべく家族と同じものを食べられる状態にして出してあげる。それが、日々食べられなくなっていくので毎日何を食べさせるか悩んだ。可愛がってた猫が腎不全と老衰で死んだ時もこんなだったと思った。

たったの二日間の介護体験で老老介護で相手を殺してしまう老人の気持ちや施設で入所者を虐待する職員の気持ちが分かってしまった。
団塊の世代が80代を迎えるころ日本は介護地獄になっているかもしれない。
二日後、姉に介護を交代して、私は一旦、大分にもどった。

2013/10/29

自宅で看取るということ

自宅で看取るためには、訪問看護、往診の医師、訪問入浴、介護ベッド、介護認定が必要で、姉が地域の診療所に勤めていたからスムーズに進んだが、情報のない人だったらそれは大変な仕事になっただろう。一番大変だったのは往診をしてくれる医師を捜すことだった。東京という人口の多い地域なのに案外往診をしてくれる医師は近くにないもので、隣の市から来てもらうことになった。

退院前日、病院の担当医、ソーシャルワーカ、家族、ケアマネージャー、訪問看護師によるカンファレンスが行われた。担当医からは予期せぬ言葉が飛び出した。「動脈瘤がありますから、いつ大量出血するかわかりません。その時に慌てて救急車を呼ばないように。救急車で搬送されれば望まない延命治療を受けることになります。ご家族で手に負えなくなった時は早めに連絡をしてください。こちらで再度受け入れることは可能です。」
えっ!!末期癌患者を家で看取るということはそんなに大変なことなんですか!?肉親の死に向き合うのが始めての私にとって、自宅で看取るということがイメージできずにいたが、この時ことの重大性を認識した。

翌日、父はストレッチャーに寝かされたまま福祉タクシーで自宅に帰った。この病院に転医する時は車椅子で移動できたが、すでに座位になれないほど体力が落ちていた。病院を出るとき担当医、看護師から丁寧な見送りを受けた、まるで、死んで病院を出る時のようだった。

自宅で介護ベッドや訪問入浴サービスを使うためには介護認定をやり直さなければならないので市の介護認定員が訪問する。介護のことは姉に任せっぱなしにしていて、この時初めて介護認定の意味を知った。介護認定が軽ければ利用できるサービスが限られ、それ以上のサービスを望む場合は自費扱いになることもあるという。早くしてくださいと頼んだが、結局、再認定の確認書類が自宅に届いたのは父の死後だった。

父が自宅に帰った日、看護師、医師、ケアマネージャーが顔を合わせた。自宅で看護することに一番不安を抱いていた母に「ご不安でしょう。困ったときはいつでも相談してください。どうしてもご自宅で無理になった時は、私どもの病院でお引き受けすることもできます。」と医師が母に優しく言ったので、母は、父の死後も、いい先生だった、と何度も言った。自宅介護の頼みの綱は一日一回の訪問看護。検温、血圧、脈拍、酸素濃度計測からオムツ交換などをしてしばらく様子を観察する。「テレビドラマで見るようなきれいな死に方はしないんですよ」と言われた。父の帰ったその日と翌日は私が看ることになったのだが・・・。

2013/10/20

怒濤の日々(臨時休業の言い訳)

この8〜9月は臨時休業の連発で、友人からは「海外旅行に行ってると思われてるんじゃない?」と言われたので、これは釈明しておかねば!
だいたい、海外旅行に行くならもっと計画的に休みの連絡するし、と思ったが・・・。

盆前に、2月に結婚した息子のところに予定より早く子どもが産まれた。世間では「孫」と言う。でも、私たちは予定通り盆休みに四国・中国地方をめぐる小旅行に出かけた。暑さのピークでこんな時期に旅行などするものでないと思いながら、夏バテの週末を過ごしていた。

そこへ、東京の姉から連絡が入った。父の様子がおかしい、黄疸がでて、震えがきてる、週明けに病院へ行くと。状態を聞くと脱水か熱中症のようなので急いで病院に行くように促した。「熱中症で高齢者また死亡89歳男性」というニュースが一瞬、頭をよぎった。点滴でとりあえず急性期の状態は脱したがその後の検査で重篤な状態であることが分かった。

「担当医から説明があるので来てほしい」と連絡があり、取り急ぎ東京へ。
医師から告げられたのは、末期の膵臓癌、肝臓にも心臓にも動脈瘤があるので手術はできない、早ければ1週間、保っても1ヶ月。
もうすぐ90歳だからいつ死んでもおかしくはないと思っていたが、いきなり末期膵臓癌は予想外だった。
5年くらい前から認知症になって、いつも眠ってるような状態だったから眠ったまま静かに穏やかに死を迎えると私は勝手に思い込んでいた。膵臓癌で亡くなった友人のお母さんは痩せ細って痛くて辛い死だったことを思い出した。

家族が延命治療を望まなければ自宅に連れ帰る、終末期医療の病院に移るか選択を求められた。末期癌です、治療は出来ません、家に連れて帰れ、はないだろう!この病院は死にそうな患者を追い出すのか!?私たちは困惑した。とりあえず、終末期患者を受け入れてくれる近い病院を探してもらって、10日後に転医した。
治療行為がなにもないのだから良くなっていると思ったのか、父はしきりと家に帰りたがっていた。転医先でも、本人が帰りたいなら帰してあげた方がよい、好きなものを食べて家族と一緒に過ごした方がよい、と言われた。

最初の入院からずっと付き添っていた姉は「私が世話をする、その方がお父さんも喜ぶから」と父を家に帰す決断をした。終末期の患者を家に連れ帰るためには、訪問看護、往診の医師、介護用ベッドなどの条件が揃わなければならない。病院のソーシャルワーカーと相談をして姉が全て手配した。地元の事情がわからない私には迎え入れる実家の掃除くらいしか出来ないので、介護用ベッドが来るまで掃除に明け暮れた。人は80歳を過ぎると体力が落ちて掃除をろくにしなくなる、その上いらないものばかりが増えていく。自宅でもやったことがないくらいの大掃除をした。

教室の予定もなるべく変更したくなかったので教室のない日に大分と東京を往復するつもりで飛行機のチケットを押さえていたが、ベッドか来るまでに掃除が間に合わなかったり、臨終を迎えたりと予定を変更せざるを得なかった。8月から10月の間何度往復したことか。
教室に来ようと思って臨時休業に当たった方にはご迷惑をおかけしました。

 

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