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日々の出来事

2016/02/05

被爆地長崎を訪ねて

長崎へは何度か訪れたことがある。当たり前だが、平和公園や原爆資料館、如己堂など原爆の被害を知り学ぶための場所、歴史的な観光スポットなど。今回は特別な思いがあって訪れた。

昨年は戦後70年という節目の年で、「二度とあの様な悲惨な戦争を起こさないために、戦争体験を次世代に繋げる」ことが日本の社会全体の課題として取り組まれていた。

私も、前の年から預かってた被爆証言集を読み上げることが宿題となっていた。「預かった」というのは、戦後50年に出版された「証言集」をウエブサイトで公開するために前年から作業を進めていたのだが、遅々として進まず、手元に置いたままになっていた。70年の節に全ての証言をアップしたいと思っていたのだが、被爆証言を読むということは、読み手が追体験するということで、けっこう、しんどいものがあった。夏までに終わらず、年内にと思ったが、とうとう年を越してしまった。

証言集を読んで、大分県にも1200人を超える被爆者の方がいたことを知った。1200人とは被爆者健康手帳を持っている人の数で、自分が被爆者であることを知られたくない人は手帳を申請してないので、実数はもっと多いだろうとのこと。大分県にそんなに多くの被爆者がいたことに正直驚いた。 軍の任務で派遣されてたり軍需工場に派遣された人たちやその家族。
14〜15才の女学生が長崎の軍需工場に派遣され被爆した。

大分県からも遠路はるばる長崎や広島に派遣され被爆した人たちのことが、母の戦争体験を聞いてすごく身近に引き寄せられてきた。「徴用で軍需工場に行かなければならなくなった時、遠くへ行かされると困るから、大分航空廠に志願して行った」と母は話していた。もし、母が徴用で長崎の工場に行かされていれば、同じように被爆していたかもしれないのだ。そう思うと、誰の上にも起こりえた原爆による被害なのだ。

被爆証言を綴ってくれた人たちのことを思いながら、被爆遺構を訪ねて長崎の街を歩いた。

*【徴用】1938年に「国家総動員法」(戦時における物資と労働力の動員権を政府に与え、国民生活を全面的に統制できる権限を政府に与える法律)が制定され、国民徴用令や国民勤労動員令など国民を戦時体制に組み込む多くの法令が出され、戦地に召集された成年男子の代わりに労働力を補うために戦争末期には10代から50代の男女が軍需工場に動員された。