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日々の出来事

2016/02/10

被爆地長崎・城山小学校へ

原爆資料館で被爆遺構を尋ねると、爆心地周辺の地図を渡してくれて、城山小学校には被爆当時の校舎が保存されて資料館になっていて、そこでしか見れない資料もあるので行くと良いと教えてくれた。

城山小学校は浦上川を挟んで爆心地の対岸の高台にあった。爆心地から500メートルくらいだ。鉄筋コンクリート造りの校舎の階段の踊り場部分が残されていた。他の部分は老朽化したため取り壊されたが、原爆の被害を後世に伝えるために保存運動をして残したらしい。鉄筋コンクリートは焼け落ちなかったが、コンクリートにはめ込まれた木材は見事に炭になっていた。熱線の凄さを物語っている。

案内の方がいて、写真や個人が残した資料などで丁寧に説明をしてくれた。城山小学校は被爆当時児童数が1500人いてそのうち1400人が亡くなった。夏休みで学校はなかったので、子どもたちのほとんどは、自宅で亡くなったようだと。当時の児童数の多さと亡くなった児童の多さに驚いた。この地域には軍需工場が集中してたので、職人が全国から集められ、その家族が暮らしていたそうで、かなりの人口密集地域であったのだろう。

許可をもらって展示してある写真を撮らせてもらった。被爆後2ヶ月の写真らしい。一面焼け野原で、城山小学校の立派な校舎がぽつんと残っている。

個人から寄贈を受けた絵や写真も展示していたが、こちらは撮影の許可はいただけなかった。被爆後の様子を先生が絵に残していた。冬の子たちの通学の様子、子どもが頭から毛布か布団をかぶって来る姿なのだが、家をなくした子どもたちは着るものがなく近所の人たちから分けてもらった布団を頭から被って寒さをしのいでいたと。その年の卒業生はたったの2人だった。

学校で被爆して亡くなった先生たちの顔写真もあった。夏休みの清掃作業に出てきてた時に被爆して亡くなったそうで、女学校を出て代用教員となったばかりの18〜19才の乙女たちが多くいた。

原爆で惨たらしい死に方をした人たち、家も家族も失って残された子どもたちがその後の辛い日々を送らなければならなかったことを思うと胸が締めつけられた。

城山国民学校の校舎では軍需工場(三菱兵器製作所)の仕事が行われていた。3階と2階で作業してた人たちはほぼ全員が亡くなった。展示された資料を見るとそこで働いてたのは10代の学徒たちだった。

撮影することができなかった写真が一枚ある。焼け跡に残る遺骨の写真。「亡くなった人たちを荼毘にふす煙が何日も続いた。校庭は亡くなった人たちの火葬場となった。しかし、引き取り手の無い遺骨(おそらく家族全員が亡くなったのかもしれない)は長い間放置されたままだった」と書かれていた。

2016/02/05

被爆地長崎を訪ねて