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お爺さんの伝言4

戦時下の青春

 〜旧満州、ソ連抑留の八年間〜

原隊復帰まで

松の木の調達をしていた20数名の兵隊は山を下り、各部隊に戻ることになりました。図們江の見えるところまで降りてくると、すぐそこまでソ連の戦車が入ってきているのが見えました。「どうしようか」と思案の末、私も含めて先遣隊7名は、夜を待ってから原隊復帰することになりました。

橋を渡ると見つかる。河も広い。泳げない者もいたので、ロープでみんなの身体をつなぎ合わせ、河を渡りきりました。そこからは畑がつづき、先は飛行場なので、見つけられないように、ぬれた身体を低くして進みました。

すると、目がしみてきて痛くなってね、毒ガスでもまかれたのでは・・・と心配してると、玉葱畑の中を這いずりまわっていたんですね。アッハッハー・・・。

そうこうして中国側に入りました。サンドアイの原隊までの長い距離を、飛行場を避け、夜間の行動になりました。食べるものは「乾パン」が少なくなると畑のものを盗ったり、水場で死んでしまった兵士の荷物から調達して飢えをしのぎました。

山に入ると木が少なく、急な斜面が多く、途中、霧の深い山の中腹あたりで飛行機が墜落した現場に遭遇しました。機体の破片や死体が散乱していました。飛行機で脱出しようとしたんでしょうかね。

「金モール」をつけた人達だったから、たぶん、(開拓団や兵隊をおいて逃げ出した)関東軍の上級幹部の将校ではないでしょうか。

9月上旬20日ぐらいかけて原隊に戻ると、すでに誰もおらず、近くにいた中国の住民の話から、部隊は名月鎮(駅)に向かったようでした。再び明月駅に向かって山越えとなりました。

しばらくすると、ソ連の偵察機がわれわれの上空を飛び回り、帰って行きました。2時間ほどすると、日本軍の師団司令部の将校と、ソ連の将校がジープに乗ってやってきました。

日本の将校が「白旗」を持っていたので「助かった」と思うと同時に「(日本が)負けた」ことを知らされました。明月駅で武装解除となり、延吉に連れて行かれました。

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脚注

【図們江〜サンドアイ〜明月駅】サンドアイの場所と朝鮮側の図們江近くの山の場所が特定できないが、仮に図們市〜明月駅の距離は現在の国道を通って120キロなので、山間部を通った時は更に長い距離となる。

【延吉】明月駅から延吉までが約70キロ。

【関東軍】関東州(遼東半島先端)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都である新京(現・吉林省長春)に移転した。「関東軍」の名称は警備地の関東州に由来し(関東とは、万里の長城の東端とされた山海関の東側、つまり満州全体を意味する)。
関東軍は、1928年に張作霖爆殺事件、1931年、柳条湖事件を起こし、日本を戦争の泥沼へと引きずり込んだ。


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