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お爺さんの伝言7

戦時下の青春

 〜旧満州、ソ連抑留の八年間〜

民主化運動と仕事

ラーゲルに収容された昭和20年(1945年)には、ラーゲル内では今で言う「民主化運動」が始まっていました。

階級で成り立っている軍隊の「階級制度」をなくし、日本人の頭の切り替え(意識改革)をやらせるために、民主化が行われました。

ラーゲル内の仕事を進めやすくするために、ソ連側は意図的にオルグ(組織活動)ができる人材を、ラーゲルの基点であるハバロフスクに集めて教育し、元のラーゲルに帰すことも考えていたようです。

一方では、捕虜の自発的な動きもあったようで、各ラーゲルで、演劇によって意識的に民主化を伝えていきました。

仕事は毎日、各ラーゲルにその日の作業が割り当てられ、歩いて30分ぐらいの所へ出向いて作業をしていました。

道路の補修工事、住宅(マンション)の建設、レンズ製造、まき割り、森林伐採、車の部品修理、船の修理、炊事(ボイラー焚き)などをしました。

大森林の中を通るシベリア鉄道は、大木が列車に倒れると危険なので、線路の両側50メートルの間にある木を伐採します。

この作業は200人ぐらいの混成部隊が、現地に出向いて、泊まり込みで当たるんですよ。私たちのラーゲルからは、私も含めて30人ぐらいがいきました。

大型の牽引車の部品修理作業は、新しいメタルをシャフトに「ピタリ」と合うようにヤスリで削って交換します。直ると牽引車を試運転で走らせるんですが、それがとても楽しかったですね。

造船所のドックへ仕事に行った昼休みのこと。監視している海軍の将校が、ジーッとわれわれのそばで話を聞いているんですよ。

どうせ日本語がわかるはずがないと思って、大声で「いつまで俺たちはこうしていなければならないのか」と仲間でしゃべっていると、その将校がそばに来て、日本語で「君たちはたいへん苦労しているが、必ず日本へ帰してやるよ。ソ連に学ぶところはないかもしれないが、今、日本へ一度に全員が帰ったら日本はパンクしてしまうよ。日本は食糧難だからね。ところで、貴方、マッチャンでしょ」と言うのです。

「なぜ俺の名前を・・・」とたずねると、その将校は「ハルピンのアムールというバーのコックだった」というのです。そのバーで2回もウォッカを飲みすぎて寝てしまった時に世話になったコックさんだったのです。こんこんと話をしてくれたのには、びっくりしましたね。ソ連にはこのような人がいるんだなあと感心しました。

ボイラー室で働いていたときのことですが、急性肺炎になってしまいました。ものすごい暑さで、大汗をかき、薄着で外に出てしまい、急激な温度差のために胸が刺しこんで痛くなり、一発で高熱が出てね。収容所の病院に運ばれると「一週間が勝負だ・・・」と、意識が朦朧(もうろう)とする中で軍医の声が聞こえる。「こんなところで死ねるか」と、高熱との闘いがはじまりました。

1ヶ月ほどすると回復して、入院生活も終わり、元の第4ラーゲルではなく、第22ラーゲルに移りました。そこでは、私を診てくれた軍医のはからいで「炊事係り」に回してもらい、石炭を燃やす仕事だったので助かりました。

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脚注

【シベリア鉄道】ロシア連邦中南部に位置するチェリャビンスク州のチェリャビンスクからシベリア南東部の沿海州にある日本海岸のウラジオストクまでの7,416kmの区間を指すが、一般的にはその他の路線も含めたモスクワ - ウラジオストク間9,297kmを指す事が多い。建設は1891年から開始され、労働力は各地の受刑者とロシア軍兵士によって行われ、日本の敗戦によって、日本人捕虜も強制労働に加えられた。