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お爺さんの伝言9

戦時下の青春

 〜旧満州、ソ連抑留の八年間〜

あとがきにかえて

最後までお読み頂きありがとうございました。

幸いにも父は激戦の前線に出されることがありませんでした。 戦争が終結したことも知らずに、逃げ回り、シベリアで3年もの抑留生活を余儀なくされました。そして生死の境をさまよいながら、なんとしても、日本に帰りたいと生き抜きました。

日本への帰国を果たせずシベリアの凍土でオオカミの餌となった兵士たちも沢山いました。 前線に送り出された多くの兵士達が飢えで死んだと言われていますが、シベリアに抑留された人達も多くが栄養失調で亡くなったのです。

子どもの頃、さらっと聞き流した、父の戦争体験、文字になって改めて読んでみて、知ってるようで知らなかった戦争の真実が沢山ありました。

当時、満洲に移住することが国策としてすすめられ、それを推進するために教育関係まで組織したこと。こちらのサイトへ

満鉄は単なる鉄道ではなく、中国の植民地支配のために重要な拠点で、そこを警備するために関東軍が大きな組織になっていった。
撫順炭坑の警備に当たった独立守備隊が1932年に平頂山事件(村人を丸ごと殺害し証拠隠滅のために埋めた。詳細リンク)をおこしたこと。
1937年、南京攻略、南京大虐殺に大分47連隊もかかわったこと(詳細リンク)など。
関東軍が対ソ連戦のために準備を進めていたことも知りました。

なによりも疑問に思ったのは、なぜ、父は3年もの間、捕虜としてシベリアで奴隷労働を強いられなければならなかったのか、ということです。

囚人ではなく奴隷でした。南方で米軍の捕虜となり、労働をした兵士たちには労賃がしはらわれましたが、シベリア抑留者には労賃が支払われないので奴隷だったのです。

日本国内でも、本土決戦の時間稼ぎに沖縄を犠牲にしたように、戦争に負けても天皇制だけは守るために、支配層や軍幹部が、満洲に残った兵士や民間人を奴隷としてソ連に売ったのでした。

ソ連は戦争の賠償としての労働力の提供によって、国土の復興をとげたのです。皮肉なことに、日本とソ連の支配層の利害が一致し、60万を超える兵士と民間人がシベリアに抑留されることになったのでした。
シベリアに抑留された日本人捕虜は639,635人、収容所で死亡は37,800人とされています。

15年に及ぶこの戦争で亡くなった日本兵や軍属は230万人。

日本で空襲、原爆にあって亡くなった人は80万人。

アジア諸国で亡くなった人2000万〜3000万人。

戦場で命を落とした人ばかりでなく、身体の自由を奪われた人、家を失った人、一家の働き手を失った家族など、その犠牲は計り知れません。

今なお、世界中で紛争が絶えず、傷つく人達が絶えません。ひとたび紛争が起きるとすぐにおさまることがありません。だから、武力衝突は起こしてはならないのです。 日本人はあの戦争で沢山の犠牲をだし、そのことを学んだのです。

 * * *

不十分ではありますが、父の戦争体験に脚注を書くことで、曖昧でしかなかった、戦争の記憶を確認する作業ができました。そして、たくさんの知らなかった事実も知ることができました。
数えきれない犠牲を払って日本が得た教訓は「二度と戦争をしてはいけない」ということです。

この作業は父の戦争体験を聞き流してた、せめてものお詫びです。

-9-

脚注

【捕虜】

「国際法から見た日本捕虜のシベリア抑留」(東海大学平和戦略国際研究所教授:白井久也)によると
「日本の敗戦が不可避となった45年7月、日本政府はソ連の仲介で米英との戦争を終結、講話を結ぼうとして、近衛文麿元首相のソ連派遣を計画、ソ連に受け入れの打診を行った。・・・この時に準備した「和平交渉の要綱」に@天皇制の「国体護持」を絶対条件とする見返りに、A「国土に就いては(略)やむを得ざれば固有本土を以て満足す」と朝鮮や満洲だけでなく、千島列島や南樺太も放棄する一方、B「賠償として一部の労力を提供することに同意す」と満洲などに在留の軍人軍属をソ連が抑留し、戦時賠償の一部として労働に服させることを容認した。・・・しかし、この和平交渉はソ連に拒否された。
関東軍総司令部が45年8月26日に提出した「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」の中で、「軍人、満洲に生業や家庭を有するもの、希望者は貴軍の経営に協力させ、その他は逐次内地に帰還させてほしい。帰還までは、極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」という正式な申し入れを行っていた。・・・元関東軍参謀草地貞吾大佐が数人の参謀と合議の上取りまとめ、山田乙三総司令官、秦総参謀長の決済を受けてソ連側に提出したことが、近年と草地証言で判明した。」
一方でソ連も「スターリンが武装解除後に日本人将兵の早期帰国をうたうポツダム宣言を無視して、シベリアに長期抑留したのは戦争で破壊された国土や経済の復興・再建に必要な労働力がソ連国内で極度に不足したため、捕虜労働によってその埋め合わせをすることに最大の狙いがあった。」

「シベリア抑留体験者 極寒の記憶 絵筆に込めて」(動画)に関東軍がソ連に提出した文書を見ることができます。

【日本国憲法】(1946年11月3日公布、1947年5月3日施行)一部抜粋
(前文)

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」

もっとわかりやすい言葉で表した「やさしいことばで日本国憲法」池田香代子さんのブログで紹介