父が大分を離れて60年経って知る人もほとんど居なくなったが、かつて大分で一緒に活動していた人に父が逝ったことを伝えた。そこで思いもかけないことを聞いた。もう一人、父が気にしてた人の消息を尋ねると「G君は菅生事件でやられた人だよ」と教えてくれた。
菅生事件とは、1952年直入郡菅生村(竹田市菅生)で起きた現職警察官が駐在所で爆弾を爆発させ、おびき出した共産党員2人に罪をなすり付けた謀略事件だった。1952年は国会で「破壊活動防止法」が審議されてる時だった。反対する共産党を封じ込めるため、菅生事件は格好の材料となった。
私の遠い記憶のなかで、父から聞いた話しだったが、そのころは、東京に住んでいて九州の片田舎で起きた、しかも私が生まれる前のこととなると全てが昔ばなしのように思えていた。時折、父はその頃のことを断片的に話すので、全てのことがつながっているとは思ってなかった。
「山村工作隊に行ってお寺でお世話になっていた。」父が田舎で活動してたことが分かるものといえばお世話になったお寺から届く年賀状くらいだった。そもそも「山村工作隊」で何をしてたのか?子どもの頃聞いた話しなのでよくわからない。
父がGさんを気にかけていた理由は菅生事件で無実の罪を着せられたからだったのか。 私は「菅生事件」の詳細とその後、Gさんはどうしたのかどうしても知りたくなった。
「消えた警官ードキュメント菅生事件」坂本遼著(講談社)には事件と時代背景、裁判の経過、権力犯罪を暴くため真犯人を見つけ出すジャーナリストたちの水面下の活動が丁寧に描かれて面白い。まるで、小説のような本当にあったことなのだ。
父が世話になったお寺の僧侶も無実の罪を着せられた一人だった。父が山村工作隊で行ってた事と、そして山から下りた後に事件が起きた事も、点でしかなかった昔話がこれで繋がった。
戦前から戦後の激動期を生き、大きな事件にも遭遇した歴史の生き証人として父の話しをもっと丁寧に聞いておけばよかった、反省しきりだ。
昨年6月菅生事件60年の節に事件のことを風化させないということで有志によって事件現場の近くに記念碑が建てられた。その場所にも行ってみた。なんと、熊本に行く時によく通る「道の駅すごう」の直ぐ近く。
碑文には「謀略、暴力、弾圧のない社会を 菅生から日本、世界へ
2012年6月2日 菅生事件60周年建立
菅生事件は1952年6月2日深夜、菅生駐在所が権力の手によって爆破された政治的謀略事件であった。5年に渡る裁判は広範な人々の運動によって、5名の被告全員が無罪を勝ち取った。二度と権力による謀略、暴力、弾圧を繰り返させないために、これを建てる」と、記念事業実行委員会の銘が刻まれている。
謀略事件によって無実の罪を着せられた青年たちが長い裁判を闘わなければならなかった。田舎でひとたび犯罪者の汚名を着せられた人とその家族が生きていくのは大変だったのではないかと想像する。権力による犯罪が起きない社会を願わずにはいられない。事件のことを私の中にもしっかりと記憶しておこう。