大分県大分郡松岡村、農家の四男(末っ子)に生まれる。家族は父、母、兄3人(長兄は4歳の時死亡)、姉5人。昭和15年(1940年)入隊。終戦後、捕虜としてソ連に抑留。昭和23年(1948年)に帰国。次兄は済州島で米軍の捕虜となり帰国。三番目の兄はソ連で捕虜となり帰国。
大分の47連隊の本部が軍属の募集をしていました。17歳の時、新聞広告で軍用犬訓練(士)養成所入隊の募集を知り、犬好きと親離れのつもりもあって、友人と二人で願書を出しました。母親には反対されましたが、昭和15年に入隊となり、友達と二人で下関から連絡船で釜山へ。
釜山からは朝鮮鉄道で一路「満州」の遼陽(リョウヨウ)に着き、軍用犬訓練士養成所に入りました。訓練所には三年ほどいました。
昭和17年の秋、現地で徴兵検査を受け、昭和18年1月3日に奉天(ホウテン)の第1独立守備隊に配属になりました。
任務は満州鉄道、撫順(ブジュン)炭坑、鞍山(アンザン)製鉄所の警備です。私は撫順の部隊に編入され、12名の分隊で警備していました。
入隊後の10日間くらいはお客さん扱いですが、その後は地獄のような扱いでした。内務班の規則に少しでも合わないことをすると、上官の気分次第でビンタ、ゲンコツ、底に鉄の鋲を打った革のスリッパで殴られます。
入隊すると、第1期、第2期と検閲を受けます。
第1期は、部隊として命令通り動けるように基本的な訓練を3ヶ月間叩き込まれます。
第2期は、専門分野の5つの部門(歩兵砲2門、重機関銃2門、軽機関銃2門、擲弾筒2門)を扱う実践で必要な訓練を3ヶ月受けます。
1年経つと階級が上がり、昭和19年の初め、「星」が増え一等兵となりました。
〔地図は3ページに挿入〕
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【大分の47連隊】日本軍の編成:中支那方面軍―第10軍―第6師団(熊本)ー歩兵第11旅団ー歩兵第47連隊(大分)ー大隊ー中隊ー小隊ー分隊。
47連隊は1937年12月南京攻略戦、南京大虐殺にも派遣された。
【軍属】軍に属する軍人(武官又は徴集された兵)以外で軍隊に属する者をいう。
<17歳の時>男子は兵士になることを教育されてきた。戦火が拡大するなかでどうせ戦争に行かなければならない。農家の三男は農地を分けてもらえず、いずれ、労働者として生きていかなければならない。そういう思いがあって、中学を中退して、満洲に渡ったと話したことがありました。
【満州】中国東北部(地図)1931年9月18日満州事変で関東軍が実質支配し、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を元首とする「満州国」を独立させて、中国から分離し、日本軍の進駐や特権をみとめさせた。
1936年広田弘毅内閣の国策として満洲移民がすすめられた。小学生の修学旅行、移住を推進する行政関係、農業関係、産業経済関係者、教育関係者、教員や婦人会幹部など多くが満洲を視察し、移民を推進するシステムを作った。(「日本海航路新潟北鮮線」乗船客の検討 より)
【徴兵検査・・・徴兵制】1873年には国民の義務として国民皆兵を目指す徴兵令が出され、のち兵役法となった。大日本帝国憲法にも兵役の義務が盛り込まれている。男性に対して国民皆兵が義務付けられた。その後は徴兵される男性が増加していき、太平洋戦争末期には700万人以上もの根こそぎ徴兵が行われた。
第二次世界大戦に敗れた1945年に廃止されて以後は、行なわれていない。
日本の徴兵制度は戸籍制度を前提にしており、明治6年1月10日法では「一家ノ主人タル者」や家産・家業維持の任に当たる者は兵役の義務から免除されていた。戸籍法の適用を受ける日本国民の男性は、満20歳(1943年からは19歳)の時に受ける徴兵検査によって身体能力別に甲-乙-丙-丁-戊の5種類に分けられた。
しかし戦局が激化するにつれ、現役兵としての期間を終えた後の予備役や後備役にあった元兵士の国民も召集令状によって召集され、大戦末期の昭和20年には徴集率は九割を超えた。通常、現役での徴兵を「徴集」、予備役・後備役での徴兵を「召集」と呼んで区別されていたが、混乱期には区別せずに「徴集」を用いることもあった。さらに第二次世界大戦末期になると兵力不足が顕著になり、文科系学生への徴兵(学徒出陣)や熟練工・植民地人の徴兵が行われた。(Wikipediaより)
【独立守備隊】満洲鉄道は各沿線に「鉄道付属地」という地域を持っていた。線路の敷地だけではなく鉱山や都市があり、この範囲内における治外法権を持っていた。鉄道付属地は独立守備隊が警備にあたっていた。
【満洲鉄道】日露戦争の勝利で1906年、ロシアから鉄道の一部を譲り受けた。満鉄は創設当初から、日本の国策要領に基づく形で創られ、中国東北部の支配と、日本の生命線と言う使命を担っていた。その為に、満鉄は鉄業事業だけでなく、撫順(ぶじゅん)炭鉱、鞍山(あんざん)製鉄所、農産物の品種改良、硫安(りゅうあん)工業(【註】硫酸アンモニウムの俗称で、重要な窒素肥料の一つ)や、その他、各種産業部門を手掛け、埠頭・港湾や倉庫業なども行い、日本の中国東北部における植民地支配の中心的な役割をしていた。
【撫順炭坑】日露戦争後の1905年には鉄道及びその付属地は日本の手に渡り、1907年には南満洲鉄道(満鉄)の管理下に移った。炭鉱周辺は広大な鉄道付属地(満鉄附属地)となり、駅と炭鉱の周囲に新市街が建設され、満鉄による行政が行われた。露天掘りによる大規模な石炭採掘が行われるなど満鉄を支える重要な財源となった。
1932年9月15日抗日ゲリラによる炭坑襲撃事件が起きた。これに対し独立守備隊による近くの村の掃討作戦でゲリラと全住民を殺害する事件を起こした(平頂山事件)。
【鞍山製鉄所】満鉄は鞍山付近で鉄の大鉱脈を発見し、撫順の石炭と鞍山の鉄を利用した製鉄を意図して、1918年に鉄道付属地(満鉄附属地)内に鞍山製鉄所を設立した。