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お爺さんの伝言5

戦時下の青春

 〜旧満州、ソ連抑留の八年間〜

ソ連軍の「軍規」の厳しさ

延吉に向かう途中、日本の看護婦一人が、ソ連の警備兵に連れ去られる事件がありました。

皆で看護婦を探していると、ソ連の将校(軍医)がやってきたので、連れ去られたことを身振り手振りで知らせると、どうにか通じたようでした。

われわれは離れてみていましたが、数分するとその警備兵を探し出し、3〜4人の警備兵が取り囲み、武器を取り上げ、将校(軍医)がその場で銃殺してしまったのです。将校は看護婦を抱き上げ慰めていました。

収容所で兄と再会、貨車でソ連へ

明月駅から歩いて1週間ぐらいかかり、9月末ごろに延吉に着きました。かなりの数の兵隊が集合していて、その中に兄(5歳上の3番目の兄)も収容されていたのにはびっくりしましたね。ここで会えるとはうれしかったですね。

私達は、ずっとテント暮らしで、何ヶ月も風呂に入れずにいました。ソ連軍のシャワー付きのトラックが来て、全員がシャワーを浴びるために連れて行かれました。その間、空っぽになったテントの中を調べられて、2人の兵隊の雑のうにあった「手榴弾」が見つかってしまいました。

風呂から帰ってくると、私たち全員を広場に集め整列させ、「見せしめ」のために2人の兵隊を銃殺しました。私の持っていた「日本刀」は、幸い何も言われず、助かりました。

※ 日本軍は「軍規(戦陣訓)」で『生きて虜囚の辱めを受けず』とされ、「自決」を強制されていた為に、手榴弾を所持することが義務づけられていた。

銃殺事件があって、この先何が起きるかわからないので、せっかく会えた兄弟だけど、別行動をとることにしました。どちらかが帰国できた時「ここまでは元気だったよ」と家族に報告しようと残念ながら別れました。

延吉に3〜4日滞在してから、ソ連に連れていかれました。延々と歩く道中、戦闘と疲労でかなりの兵隊が死んでいて、白骨化した遺体も見ました。鼻を衝くような臭いがしてきたところは、砲兵陣地の跡で、多くの兵隊が「自決」を強要されたのだろうと思われました。

ウラジオストクの街に着くと貨車に乗せられ、5〜6日かけてハバロフスクに到着。貨車を乗り換え、3日くらいかけてコムソモリスク・ナ・アムーレに着きました。

ここはソ連・共産主義青年同盟(コムソモリスク)の人達によって、シベリア開発のために作られた街で、それからとった地名だそうです。ここから部隊編成で、街の中を歩いてコムソモリスクの収容所に連れて行かれました。

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脚注

【戦陣訓】1941年、陸軍省が軍人勅諭を補完するものとして訓示し、法的拘束力は無いとされたが、1943年5月29日のアッツ島の日本軍守備隊約2600名の全滅、 1944年7月3日にはサイパンの戦いで(戦死約21,000名、自決約8,000名、捕虜921名)、沖縄戦では日本軍将兵が沖縄県民への集団自決を強制した。

【ウラジオストク】延吉からウラジオストクまでは直線でおよそ200キロ、山岳地帯をとおり、湾をまわるので、徒歩では倍近い距離を歩いたのではないだろうか?


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