Home > 雑記帖 > お爺さんの伝言3

お爺さんの伝言3

戦時下の青春

 〜旧満州、ソ連抑留の八年間〜

営倉(えいそう)入りは免れたが

2年目の終わりごろ、連隊には「軍旗祭」(恩賜)があり、独立守備隊では軍旗がないので、創立記念日が「軍旗祭」にあたり、無礼講で外出も飲酒も許されました。

その日、内務班の兵隊(私も含めて6人)で酒を飲んでいるところへ、われわれと同年兵の週番士官(将校待遇の幹部候補生)が回ってきました。「制服を脱いで一緒に飲もうや」と誘うと、酒盛りになりました。

少しすると、酔った勢いで一人の兵隊が「同じ釜の飯を食って威張るな!」と喧嘩になり、この時とばかりに、皆でその週番士官に毛布をかぶせたり、殴ったりしました。士官は動けなくなり、酔いつぶれ、次の日になっても起きられず、点呼も取れませんでした。

真相究明のために、われわれ6人は中隊長から呼び出しを受け、上官を侮辱した罪により、侮辱罪、暴力罪で「営倉入り」ということでした。その後、大隊長のところに連れて行かれましたが、週番士官にも落ち度があったということで、営倉入りは免れました。

営倉に入るということは、刑務所に入ることと同じで、戸籍簿に「前科」がついてしまうのです。それから私はずっと「万年一等兵」で終わりました。

先遣隊として、対ソ連の陣地づくり

先遣隊は14〜15名ぐらいで移動します。昭和20年(1945年)の初め、先遣隊は哈爾浜(ハルピン)から松花江(ショウカコウ)を遡り、同江(ドウコウ)と撫遠(ブエン)の間のソ連との国境近くの山へ入りました。山岳をくり抜いた陣地構築の仕事に従事して、半年ほどいました。

そこには、半強制的に連れてきた中国人も働いていて、おそらくその中に「八路軍」の兵隊がまぎれ込んでいて、陣地の見取り図を作っていたようで、それが発覚したという噂を聞きました。その人たちの処分はどうなったのかは知りません。

次に向かった佳木斯(ジャムス)では不思議なことがあって、夜、船で移動してると、その先々で花火が上がったんです。八路軍がわれわれの船を監視していたようです。

佳木斯から列車に乗り延吉(エンキチ)の師団司令部へ。

そこでは、次の陣地のサンドアイ(小さい山地)の場所をたずねて、再び列車で明月(メイゲツ)駅に向かいました。明月駅からは山地を歩き、サンドアイに着いたのは6月でした。

7月末ごろ、先遣隊は山の陣地のトンネル工事に必要な坑木(松の木)を調達するために、松の木がたくさんある朝鮮へ移動しました。

8月半ばごろ、図們江(トモンコウ)近くで、各部隊からの寄せ集めの兵隊で、松の木の調達に当たっていると、伝令がきて「すぐ山から下りろ、原隊へ復帰しろ」の命令でした。

-3-

脚注

【陣地構築】日本関東軍は対ソ戦準備のために1934年から満洲ソ連国境地帯に陣地施設を建設した。この場所は1940年以降の第三期の14番目の施設のようだが詳細は不明。地図に示したIとJの間にある山か?
国境陣地について詳しい論文

【八路軍】 日中戦争時に華北方面で活動した中国共産党軍(紅軍)の通称。1937年8月、中国工農紅軍が国民革命軍第八路軍として国民政府指揮下に編入されたことからこの名称で呼ばれた。

【サンドアイ】googleマップに地名をマークをしましたが、サンドアイは場所が特定できません。